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主な名作の書き出し

銀河鉄道の夜

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云いわれたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」 先生は、黒板に吊つるした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指さしながら、みんなに問といをかけました。 カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。 たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、 なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。 ところが先生は早くもそれを見附みつけたのでした。 「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」 ジョバンニは勢いきおいよく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、 ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた云いました。 「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でしょう。」 やっぱり星だとジョバンニは思いましたがこんどもすぐに答えることができませんでした。 先生はしばらく困ったようすでしたが、眼めをカムパネルラの方へ向けて、 「ではカムパネルラさん。」と名指しました。するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上ったままやはり答えができませんでした。 先生は意外なようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、急いで「では。よし。」と云いながら、自分で星図を指さしました。 「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう。」 ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙なみだがいっぱいになりました。そうだ僕ぼくは知っていたのだ、 勿論もちろんカムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。 それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨おおきな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、 まっ黒な頁ページいっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。

注文の多い料理店

二人の若い紳士しんしが、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、白熊のような犬を二ひきつれて、 だいぶ山奥やまおくの、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いいながら、あるいておりました。 「ぜんたい、ここらの山は怪けしからんね。鳥も獣けものも一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」 「鹿しかの黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お見舞みまいもうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒たおれるだろうねえ。」 それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。 それに、あんまり山が物凄ものすごいので、その白熊のような犬が、二疋いっしょにめまいを起こして、しばらく吠うなって、それから泡あわを吐はいて死んでしまいました。 「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼まぶたを、ちょっとかえしてみて言いました。 「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もひとりが、くやしそうに、あたまをまげて言いました。 はじめの紳士は、すこし顔いろを悪くして、じっと、もひとりの紳士の、顔つきを見ながら云いました。 「ぼくはもう戻もどろうとおもう。」 「さあ、ぼくもちょうど寒くはなったし腹は空すいてきたし戻ろうとおもう。」 「そいじゃ、これで切りあげよう。なあに戻りに、昨日きのうの宿屋で、山鳥を拾円じゅうえんも買って帰ればいい。」 「兎うさぎもでていたねえ。そうすれば結局おんなじこった。では帰ろうじゃないか」 ところがどうも困ったことは、どっちへ行けば戻れるのか、いっこうに見当がつかなくなっていました。 風がどうと吹ふいてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。 「どうも腹が空いた。さっきから横っ腹が痛くてたまらないんだ。」 「ぼくもそうだ。もうあんまりあるきたくないな。」 「あるきたくないよ。ああ困ったなあ、何かたべたいなあ。」 「喰たべたいもんだなあ」 二人の紳士は、ざわざわ鳴るすすきの中で、こんなことを云いました。

セロ弾きのゴーシュ

ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。 上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。 ひるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六交響曲こうきょうきょくの練習をしていました。 トランペットは一生けん命歌っています。 ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。 クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。 ゴーシュも口をりんと結んで眼めを皿さらのようにして楽譜がくふを見つめながらもう一心に弾いています。 にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。みんなぴたりと曲をやめてしんとしました。楽長がどなりました。 「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」 みんなは今の所の少し前の所からやり直しました。ゴーシュは顔をまっ赤にして額に汗あせを出しながらやっといま云いわれたところを通りました。 ほっと安心しながら、つづけて弾いていますと楽長がまた手をぱっと拍うちました。 セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教えてまでいるひまはないんだがなあ。」 みんなは気の毒そうにしてわざとじぶんの譜をのぞき込こんだりじぶんの楽器をはじいて見たりしています。ゴーシュはあわてて糸を直しました。 これはじつはゴーシュも悪いのですがセロもずいぶん悪いのでした。

風の又三郎

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
谷川の岸に小さな学校がありました。 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで、あとは一年から六年までみんなありました。 運動場もテニスコートのくらいでしたが、すぐうしろは栗くりの木のあるきれいな草の山でしたし、運動場のすみにはごぼごぼつめたい水を噴ふく岩穴もあったのです。 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。 黒い雪袴ゆきばかまをはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかにだれも来ていないのを見て、 「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫びながら大よろこびで門をはいって来たのでしたが、 ちょっと教室の中を見ますと、二人ふたりともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合わせてぶるぶるふるえましたが、ひとりはとうとう泣き出してしまいました。 というわけは、そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり、いちばん前の机にちゃんとすわっていたのです。 そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。 もひとりの子ももう半分泣きかけていましたが、それでもむりやり目をりんと張って、そっちのほうをにらめていましたら、ちょうどそのとき、川上から、 「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」と高く叫ぶ声がして、それからまるで大きなからすのように、嘉助かすけがかばんをかかえてわらって運動場へかけて来ました。 と思ったらすぐそのあとから佐太郎さたろうだの耕助こうすけだのどやどややってきました。

吾輩は猫である

吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。 どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。 しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪どうあくな種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕つかまえて煮にて食うという話である。 しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。 ただ彼の掌てのひらに載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。 掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始みはじめであろう。 この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶やかんだ。 その後ご猫にもだいぶ逢あったがこんな片輪かたわには一度も出会でくわした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。 そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙けむりを吹く。どうも咽むせぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草たばこというものである事はようやくこの頃知った。 この書生の掌の裏うちでしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。 書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗むやみに眼が廻る。胸が悪くなる。到底とうてい助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。 それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。 ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一疋ぴきも見えぬ。肝心かんじんの母親さえ姿を隠してしまった。 その上今いままでの所とは違って無暗むやみに明るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容子ようすがおかしいと、のそのそ這はい出して見ると非常に痛い。 輩は藁わらの上から急に笹原の中へ棄てられたのである。

三四郎

うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。 発車まぎわに頓狂とんきょうな声を出して駆け込んで来て、いきなり肌はだをぬいだと思ったら背中にお灸きゅうのあとがいっぱいあったので、三四郎さんしろうの記憶に残っている。 じいさんが汗をふいて、肌を入れて、女の隣に腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。 女とは京都からの相乗りである。乗った時から三四郎の目についた。第一色が黒い。 三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた。 それでこの女が車室にはいって来た時は、なんとなく異性の味方を得た心持ちがした。この女の色はじっさい九州色きゅうしゅういろであった。 三輪田みわたのお光みつさんと同じ色である。国を立つまぎわまでは、お光さんは、うるさい女であった。そばを離れるのが大いにありがたかった。 けれども、こうしてみると、お光さんのようなのもけっして悪くはない。 ただ顔だちからいうと、この女のほうがよほど上等である。口に締まりがある。目がはっきりしている。額がお光さんのようにだだっ広くない。なんとなくいい心持ちにできあがっている。 それで三四郎は五分に一度ぐらいは目を上げて女の方を見ていた。時々は女と自分の目がゆきあたることもあった。 じいさんが女の隣へ腰をかけた時などは、もっとも注意して、できるだけ長いあいだ、女の様子を見ていた。その時女はにこりと笑って、さあおかけと言ってじいさんに席を譲っていた。 それからしばらくして、三四郎は眠くなって寝てしまったのである。 その寝ているあいだに女とじいさんは懇意になって話を始めたものとみえる。目をあけた三四郎は黙って二人ふたりの話を聞いていた。女はこんなことを言う。 子供の玩具おもちゃはやっぱり広島より京都のほうが安くっていいものがある。京都でちょっと用があって降りたついでに、蛸薬師たこやくしのそばで玩具を買って来た。 久しぶりで国へ帰って子供に会うのはうれしい。しかし夫の仕送りがとぎれて、しかたなしに親の里へ帰るのだから心配だ。

それから

誰か慌あわただしく門前を馳かけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたが空くうから、ぶら下っていた。 けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおのくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。 枕元まくらもとを見ると、八重の椿つばきが一輪畳の上に落ちている。代助は昨夕ゆうべ床の中で慥たしかにこの花の落ちる音を聞いた。 彼の耳には、それが護謨毬ゴムまりを天井裏から投げ付けた程に響いた。 夜が更ふけて、四隣あたりが静かな所為せいかとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋あばらのはずれに正しく中あたる血の音を確かめながら眠ねむりに就いた。 ぼんやりして、少時しばらく、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めていた彼は、急に思い出した様に、寐ねながら胸の上に手を当てて、又心臓の鼓動を検し始めた。 寐ながら胸の脈を聴いてみるのは彼の近来の癖になっている。動悸どうきは相変らず落ち付いて確たしかに打っていた。 彼は胸に手を当てたまま、この鼓動の下もとに、温かい紅くれないの血潮の緩く流れる様を想像してみた。これが命であると考えた。 自分は今流れる命を掌てのひらで抑えているんだと考えた。それから、この掌に応こたえる、時計の針に似た響は、自分を死に誘いざなう警鐘の様なものであると考えた。 この警鐘を聞くことなしに生きていられたなら、――血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかったなら、如何いかに自分は気楽だろう。如何に自分は絶対に生を味わい得るだろう。 けれども――代助は覚えずぞっとした。彼は血潮によって打たるる掛念けねんのない、静かな心臓を想像するに堪えぬ程に、生きたがる男である。 彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所ここを鉄槌かなづちで一つ撲どやされたならと思う事がある。 彼は健全に生きていながら、この生きているという大丈夫な事実を、殆ほとんど奇蹟きせきの如ごとき僥倖ぎょうこうとのみ自覚し出す事さえある。

こころ

私わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。 これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。 筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。 私が先生と知り合いになったのは鎌倉かまくらである。 その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書はがきを受け取ったので、私は多少の金を工面して、出掛ける事にした。 私は金の工面に二に、三日さんちを費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。 電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧すすまない結婚を強しいられていた。 彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心かんじんの当人が気に入らなかった。 それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。 けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もとより帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。 学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ日数ひかずがあるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留とまる覚悟をした。 友達は中国のある資産家の息子むすこで金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。 したがって一人ひとりぼっちになった私は別に恰好かっこうな宿を探す面倒ももたなかったのである。 宿は鎌倉でも辺鄙へんぴな方角にあった。玉突たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷なわてを一つ越さなければ手が届かなかった。 車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。

走れメロス

メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐じゃちぼうぎゃくの王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。 笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。 けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此このシラクスの市にやって来た。 メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿はなむことして迎える事になっていた。 結婚式も間近かなのである。 メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。 メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。 久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。 ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。 のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。 路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈はずだが、と質問した。 若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺ろうやに逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。 メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。

人間失格

私は、その男の写真を三葉、見たことがある。 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、 それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、 醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、 「可愛い坊ちゃんですね」 といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、 しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、 「なんて、いやな子供だ」 と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。 まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。 この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。 猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺しわを寄せているだけなのである。 「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。 私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。

斜陽

朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、 「あ」と幽かな叫び声をお挙げになった。 「髪の毛?」スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。 「いいえ」 お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、 そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。 婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。弟の直治がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向ってこう言った事がある。 「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。 爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいのもいる。 岩島なんてのは(と直治の学友の伯爵のお名前を挙げて)あんなのは、まったく、新宿の遊廓の客引き番頭よりも、もっとげびてる感じじゃねえか。 こないだも、柳井(と、やはり弟の学友で、子爵の御次男のかたのお名前を挙げて)の兄貴の結婚式に、あんちきしょう、タキシイドなんか着て、なんだってまた、 タキシイドなんかを着て来る必要があるんだ、それはまあいいとして、テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのには、げっとなった。 気取るという事は、上品という事と、ぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ。 高等御下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあったものだけれども、じっさい華族なんてものの大部分は、高等御乞食とでもいったようなものなんだ。 しんの貴族は、あんな岩島みたいな下手な気取りかたなんか、しやしないよ。おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。 かなわねえところがある」

ヴィヨンの妻

あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。 夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて掻かきまわし、何やら捜している様子でしたが、 やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっという荒い呼吸ばかりで、何をしている事やら、私が寝たまま、 「おかえりなさいまし。ごはんは、おすみですか?お戸棚に、おむすびがございますけど」と申しますと、 「や、ありがとう」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」とたずねます。 これも珍らしい事でございました。坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、 歩く足許あしもとさえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないかとも思われ、 私はこの子を銭湯に連れて行きはだかにして抱き上げて、あんまり小さく醜く痩やせているので、凄さびしくなって、おおぜいの人の前で泣いてしまった事さえございました。 そうしてこの子は、しょっちゅう、おなかをこわしたり、熱を出したり、夫は殆ど家に落ちついている事は無く、子供の事など何と思っているのやら、 坊やが熱を出しまして、と私が言っても、あ、そう、お医者に連れて行ったらいいでしょう、と言って、いそがしげに二重廻しを羽織ってどこかへ出掛けてしまいます。 お医者に連れて行きたくっても、お金も何も無いのですから、私は坊やに添寝して、坊やの頭を黙って撫なでてやっているより他は無いのでございます。 けれどもその夜はどういうわけか、いやに優しく、坊やの熱はどうだ、など珍らしくたずねて下さって、私はうれしいよりも、何だかおそろしい予感で、脊筋が寒くなりました。 何とも返辞の仕様が無く黙っていますと、それから、しばらくは、ただ、夫の烈はげしい呼吸ばかり聞えていましたが、 「ごめん下さい」 と、女のほそい声が玄関で致します。私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。

高瀬舟

高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。 徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。 それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ回されることであった。 それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。 これは上へ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。 当時遠島を申し渡された罪人は、もちろん重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盗みをするために、人を殺し火を放ったというような、 獰悪な人物が多数を占めていたわけではない。高瀬舟に乗る罪人の過半は、いわゆる心得違いのために、思わぬ科を犯した人であった。 有りふれた例をあげてみれば、当時相対死と言った情死をはかって、相手の女を殺して、自分だけ生き残った男というような類である。 そういう罪人を載せて、入相の鐘の鳴るころにこぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走って、加茂川を横ぎって下るのであった。 この舟の中で、罪人とその親類の者とは夜どおし身の上を語り合う。いつもいつも悔やんでも返らぬ繰り言ごとである。 護送の役をする同心は、そばでそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族の悲惨な境遇を細かに知ることができた。 所詮、町奉行の白州で、表向きの口供を聞いたり、役所の机の上で、口書きを読んだりする役人の夢にもうかがうことのできぬ境遇である。 同心を勤める人にも、いろいろの性質があるから、この時ただうるさいと思って、耳をおおいたく思う冷淡な同心があるかと思えば、またしみじみと人の哀れを身に引き受けて、 役がらゆえ気色には見せぬながら、無言のうちにひそかに胸を痛める同心もあった。

山椒大夫

石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓つくえのほとりはいと静かにて、熾熱燈しねつとうの光の晴れがましきも徒あだなり。 今宵こよいは夜ごとにここに集つどい来る骨牌カルタ仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余よ一人ひとりのみなれば。 五年前いつとせまえの事なりしが、平生ひごろの望み足りて、洋行の官命をこうむり、このセイゴンの港まで来こしころは、目に見るもの、耳に聞くもの、 一つとして新たならぬはなく、筆に任せて書きしるしつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけん、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、 今日になりておもえば、穉おさなき思想、身のほど知らぬ放言、さらぬも尋常よのつねの動植金石どうしょくきんせき、さては風俗などをさえ珍しげにしるししを、 心ある人はいかにか見けん。こたびは途とに上のぼりしとき、日記にきものせんとて買いし冊子さっしもまだ白紙のままなるは、独逸ドイツにて物学びせし間に、 一種の「ニル・アドミラリイ」の気象をや養い得たりけん、あらず、これには別に故ゆえあり。 げに東ひんがしに還かえる今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなお心に飽き足らぬところも多かれ、浮世うきよのうきふしをも知りたり、 人の心の頼みがたきは言うも更さらなり、われとわが心さえ変わりやすきをも悟り得たり。きのうの是ぜはきょうの非ひなるわが瞬間の感触を、筆に写して誰たれにか見せん。 これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。 ああ、ブリンヂイシイの港を出でてより、はや二十日はつかあまりを経ぬ。 世の常ならば生面せいめんの客にさえ交わりを結びて、旅の憂うさを慰めあうが航海の習いなるに、微恙びようにことよせて房へやのうちにのみ籠こもりて、 同行の人々にも物言うことの少なきは、人知らぬ恨みに頭かしらのみ悩ましたればなり。

舞姫

越後の春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を踰こえたばかりの女で、二人の子供を連れている。 姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。 二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、 折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣にでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、 笠やら杖やらかいがいしい出立をしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。 道は百姓家の断えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、 よく固まっていて、海のそばのように踝を埋めて人を悩ますことはない。 藁葺の家が何軒も立ち並んだ一構えが柞ははその林に囲まれて、それに夕日がかっとさしているところに通りかかった。 「まああの美しい紅葉をごらん」と、先に立っていた母が指さして子供に言った。 子供は母の指さす方を見たが、なんとも言わぬので、女中が言った。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」 姉娘が突然弟を顧みて言った。 「早くお父うさまのいらっしゃるところへ往ゆきたいわね」 「姉えさん。まだなかなか往いかれはしないよ」 弟は賢さかしげに答えた。母が諭さとすように言った。 「そうですとも。今まで越して来たような山をたくさん越して、河や海をお船でたびたび渡らなくては往かれないのだよ。毎日精出しておとなしく歩かなくては」 「でも早く往きたいのですもの」 と、姉娘は言った。

古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。 どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条かみじょうと云う下宿屋に、 この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人いちにんであった。 その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外ほかは大学の附属病院に通う患者なんぞであった。 大抵どの下宿屋にも特別に幅を利かせている客があるもので、そう云う客は第一金廻りが好く、小気こぎが利いていて、お上かみさんが箱火鉢を控えて据わっている前の廊下を通るときは、きっと声を掛ける。時々はその箱火鉢の向側むこうがわにしゃがんで、世間話の一つもする。部屋で酒盛をして、わざわざ肴さかなを拵こしらえさせたり何かして、お上さんに面倒を見させ、我儘わがままをするようでいて、実は帳場に得の附くようにする。先まずざっとこう云う性たちの男が尊敬を受け、それに乗じて威福を擅ほしいままにすると云うのが常である。然しかるに上条で幅を利かせている、僕の壁隣の男は頗すこぶる趣を殊にしていた。 この男は岡田と云う学生で、僕より一学年若いのだから、とにかくもう卒業に手が届いていた。岡田がどんな男だと云うことを説明するには、その手近な、際立った性質から語り始めなくてはならない。それは美男だと云うことである。色の蒼あおい、ひょろひょろした美男ではない。血色が好くて、体格ががっしりしていた。僕はあんな顔の男を見たことが殆ど無い。強いて求めれば、大分だいぶあの頃から後のちになって、僕は青年時代の川上眉山かわかみびさんと心安くなった。あのとうとう窮境に陥って悲惨の最期を遂げた文士の川上である。あれの青年時代が一寸ちょっと岡田に似ていた。尤もっとも当時競漕きょうそうの選手になっていた岡田は、体格では※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)はるかに川上なんぞに優まさっていたのである。